Sat.
07/04/2009
湿りたる風が運びて
随分と長いこと、ブログを放っておいてしまいました。
これまでに「花咲く道」ブログを訪問して下さった方々、どうもありがとうございました。
ブログの更新を、今月で終了したいと思います。
もう一度、歌集の最初の方から順にページをめくり、
これまでの未掲載分から適当に選んで載せて行きますので、
季節にそぐわない歌が脈絡も無く並ぶこともあるかと思いますがご了承を。
それでは行きましょう。
湿りたる風が運びて夜の窓を閉じても栗の花房にほふ
新築の向ひ家に今宵灯が点り子らのはしゃぎて動く影見ゆ
老衰に死ぬるが幸といふ医師のことば思ひつつ投薬を待つ
発車近き下りの列車ざはめきて訛(なまり)親しき人ら溢(あふ)るる
勤めざる我も土曜を安らぎて目覚ましのねじ巻かずに眠る
昭和45年、母が32歳の頃の作品です。



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季節にそぐわない歌が脈絡も無く並ぶこともあるかと思いますがご了承を。
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湿りたる風が運びて夜の窓を閉じても栗の花房にほふ
新築の向ひ家に今宵灯が点り子らのはしゃぎて動く影見ゆ
老衰に死ぬるが幸といふ医師のことば思ひつつ投薬を待つ
発車近き下りの列車ざはめきて訛(なまり)親しき人ら溢(あふ)るる
勤めざる我も土曜を安らぎて目覚ましのねじ巻かずに眠る
昭和45年、母が32歳の頃の作品です。


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Mon.
06/01/2009
夕餉あと
Tue.
04/07/2009
目を瞬く花嫁の父
Wed.
04/01/2009
わが春愁は
Tue.
03/31/2009
職退きて
Wed.
03/04/2009
晩年の父と今の私
今回掲載のエッセイは、母が44歳の頃に書いたものです。
どのような経緯で書いたものか、具体的には私はわかりませんが、
当時地元の有線放送で母の朗読が放送されたそうです。
晩年の父と今の私
実家の父が亡くなって十年過ぎました。六十九才でした。父はその日まで元気で、近く上京すると云っていたので、突然倒れ三時間足らずで息をひきとってしまった時には、本当に呆然といたしました。昭和四十七年の春は雪消えが早く、三月の末には水仙の花が咲きかける程に暖かかったのですが、その日は大変冷たい風が吹き荒れ、その夜に雪が二十センチ程降ったのを覚えています。そのような気候の変化が脳溢血という父の死因となった病気を誘ったのかも知れません。父が急にいなくなってみると、親孝行のようなことを何もしていなかったと思われて、悔いの残ることがいろいろとありました。
晩年の父は、「この歳になれば、来年のことまで考えるよりも、今年を一生懸命生きることが大切だ」と云っておりました。そのせいか何につけても意欲的で、表具の技術を覚えてたちまち玄人はだしになったり、菊作りをしたり、三味線をひいたり、せっせと日記をつけたりものを書いたりと、なかなか忙しそうでした。特に父の芝居好きは、地域では有名であったようです。最近は高齢者の生き方のことが話題になり、生きがい発見のお手伝い的な行事も盛んですが、その点、したいことが沢山あって忙しかった晩年の父は、幸せであったと思います。それは、父が健康であったことと、父の性格によるものと思いますが、大きな心配ごとなどがなく、父が好きなことをしていられたのは、何よりも実家の家族のお蔭であったと思い、感謝しています。
今の私はまだとても父の境地にはなれませんが、病弱であった主人の両親が亡くなり、子供達が就職して家を離れた今は、時間のゆとりが持てるようになりました。最近教えて下さる方があって、父がしていた菊作りを私もするようになり、何となく父の心境に近づいているような気がいたします。父が亡くなった当時、父は彼岸の彼方の手の届かぬところへ消えてしまったと思われたのですが、このごろは私の心の中に父に非常によく似たものがあり、父が私の内に生きていることを強く感ずるようになりました。これが親子の絆というものだと思います。ものの見方や感じ方が似ているということは、顔や姿のこと以上に強く親と子を結びつけているものだと思われます。
生前の父にさしたる孝行のできなかった私は、拙い歌など作りながら父を偲び、心の内の父に語りかけることをせめてもの供養と思っております。
父のお骨納めて佇てば父が植ゑし萩伸びゐたり墓にふれつつ
さし木して育てしつつじわが庭に植ゑよとかかへ来し父なりき
後手に組みし姿の亡き父に似し人に会ふ菊花展にて
海とふをはじめて見たる日和山われ幼かり亡父若かりき
父逝きて十年を経ぬ雪の面にけぶりて春の雨音もなし
ところで、今の私が自分の晩年のことを考えるのは、まだ早いかもしれません。しかし、人生の折返し点を過ぎ、一年を短いと感じるようになってみると、余生という日が意外に早く来そうに思われます。その時、晩年の父のように、健康で、毎日忙しく楽しく過ごすにはどうしたらよいのでしょうか。年をとれば、体力も気力も弱くなって、今考えるような訳にはいかないかも知れませんし、一人で生きているのではない以上、否応無しに忙しい日々を送るはめになるかも知れません。いずれにせよ、私という人間は、案外柔軟に対応し、すんなり順応していけるであろうと楽観しながら、こういう考え方がまた、父にそっくりなのではないかと思ったりしております。



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当時地元の有線放送で母の朗読が放送されたそうです。
晩年の父と今の私
実家の父が亡くなって十年過ぎました。六十九才でした。父はその日まで元気で、近く上京すると云っていたので、突然倒れ三時間足らずで息をひきとってしまった時には、本当に呆然といたしました。昭和四十七年の春は雪消えが早く、三月の末には水仙の花が咲きかける程に暖かかったのですが、その日は大変冷たい風が吹き荒れ、その夜に雪が二十センチ程降ったのを覚えています。そのような気候の変化が脳溢血という父の死因となった病気を誘ったのかも知れません。父が急にいなくなってみると、親孝行のようなことを何もしていなかったと思われて、悔いの残ることがいろいろとありました。
晩年の父は、「この歳になれば、来年のことまで考えるよりも、今年を一生懸命生きることが大切だ」と云っておりました。そのせいか何につけても意欲的で、表具の技術を覚えてたちまち玄人はだしになったり、菊作りをしたり、三味線をひいたり、せっせと日記をつけたりものを書いたりと、なかなか忙しそうでした。特に父の芝居好きは、地域では有名であったようです。最近は高齢者の生き方のことが話題になり、生きがい発見のお手伝い的な行事も盛んですが、その点、したいことが沢山あって忙しかった晩年の父は、幸せであったと思います。それは、父が健康であったことと、父の性格によるものと思いますが、大きな心配ごとなどがなく、父が好きなことをしていられたのは、何よりも実家の家族のお蔭であったと思い、感謝しています。
今の私はまだとても父の境地にはなれませんが、病弱であった主人の両親が亡くなり、子供達が就職して家を離れた今は、時間のゆとりが持てるようになりました。最近教えて下さる方があって、父がしていた菊作りを私もするようになり、何となく父の心境に近づいているような気がいたします。父が亡くなった当時、父は彼岸の彼方の手の届かぬところへ消えてしまったと思われたのですが、このごろは私の心の中に父に非常によく似たものがあり、父が私の内に生きていることを強く感ずるようになりました。これが親子の絆というものだと思います。ものの見方や感じ方が似ているということは、顔や姿のこと以上に強く親と子を結びつけているものだと思われます。
生前の父にさしたる孝行のできなかった私は、拙い歌など作りながら父を偲び、心の内の父に語りかけることをせめてもの供養と思っております。
父のお骨納めて佇てば父が植ゑし萩伸びゐたり墓にふれつつ
さし木して育てしつつじわが庭に植ゑよとかかへ来し父なりき
後手に組みし姿の亡き父に似し人に会ふ菊花展にて
海とふをはじめて見たる日和山われ幼かり亡父若かりき
父逝きて十年を経ぬ雪の面にけぶりて春の雨音もなし
ところで、今の私が自分の晩年のことを考えるのは、まだ早いかもしれません。しかし、人生の折返し点を過ぎ、一年を短いと感じるようになってみると、余生という日が意外に早く来そうに思われます。その時、晩年の父のように、健康で、毎日忙しく楽しく過ごすにはどうしたらよいのでしょうか。年をとれば、体力も気力も弱くなって、今考えるような訳にはいかないかも知れませんし、一人で生きているのではない以上、否応無しに忙しい日々を送るはめになるかも知れません。いずれにせよ、私という人間は、案外柔軟に対応し、すんなり順応していけるであろうと楽観しながら、こういう考え方がまた、父にそっくりなのではないかと思ったりしております。


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Tue.
03/03/2009
近き死を
Sat.
02/28/2009
雪椿咲きぬ
去年植ゑし雪椿咲きぬ車庫裏の日光乏しき土になじみて

雪止みは幾日振りか町に出てフリージア買い抱きて帰る

花の写真は季節の花300さんからお借りしました。
母が53歳の頃でした。


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Sun.
02/22/2009
最後の授業終ふと
Fri.
02/20/2009
詰襟の
Fri.
02/20/2009
夜勤めの
Fri.
02/20/2009
孫の風邪
Sat.
02/07/2009
長男と鶏の話
昨年2月下旬に始めたこのブログ。
1年をかけ、季節が一巡りする間には、かなりの歌を掲載できるだろうと思っていました。
そして1年が過ぎ、掲載する句も残り少なくなりました。
今日は、母が大学ノートに書きとめていたエッセイを載せたいと思います。
書かれてある話は、おそらく今から約25年近く前のことのようです。
兄は大学を卒業して教職に就いていました。
長男と鶏の話
長男が小さい頃、春まつりの露天で鶏のひなを買って来た。家族の足元にまとわりついてピヨピヨと鳴いているうちはよかったが、次第に大きくなりとさかも立派になると、夜の明けぬうちから、コケコッコーと時を告げるようになった。
夏の夜は短いのに、家族一同この声に早起きを強いられて睡眠不足となり困ったが、尚しばらくは飼っていた。しかし、おんどりは気が強くなるばかりで、エサをやる手にかみついたりするので、親戚に処分してもらうことになり、私が送り届けたのであった。
長男が大学を卒業し、高崎市の郊外に就職した。住居は市内の静かな住宅地だから、来てみるといいよという。高崎駅がまだ昔の姿の時である。ふと見ると、なるほど近くにお寺の大きな屋根があり、北の窓からは観音様もおがめる、結構な住まいであった。
雪国から出て行った私は、もう桜が散り果てているような関東の陽気にのぼせてしまい、その日は早々と床についた。初任給で高い家賃を払って暮らしていけるのだろうかなどと思っているうち、いつか眠ってしまったが、翌朝なんとまだ暗いうちに、コケコッコーの声に起こされたのである。カーテンを手でよけて三階の窓から下をのぞくと、山路をへだてた向い家の庭にそれらしい小屋がぼんやり見える。うす明かりの中で、なつかしい声ではあるがこれは大変だなと思った。
長男は、おんどりの鳴き声よりも月4万円の家賃に音を上げて、二年後に郊外へ引っ越した。一戸建てで、広々とした青空駐車場付きで、近くに田んぼもある田舎だよ、家賃が1万円安いから車を持ったけど大丈夫だよ、という。行ってみると、又々お隣さんはおんどりを飼っているのである。そのトリは一日中気の向いたときに鳴いている。鶏に縁があるねと云ったら、長男は、俺酉(トリ)年の生まれだからね、という。なるほど、それを忘れていたよ、そうだったねえと妙に納得したものであった。
それから二年後の昨年、本人も希望していた新潟県へ就職することができた。それはよかったのだが、新任地は、小出も長岡も新潟さえ飛び越して、羽越本線の坂町駅の近くだという。高崎からは約三百キロ北である。住まいは一戸建てで、三部屋あるから楽々泊まれるし、庭もあるよ、という。又ニワトリに起こされるのかねえと云うと、いや今度はブタだよとの返事。・・・・・。隣は豚舎だそうである。
近くに生きものがいると何となくのどかでほっとする、というのが長男の弁である。長男は、豚舎と背中合わせに、あと何年あの閑居に住むのであろうか。 (終)
文章には、私の方で多少の手直しを入れてあります。
もしかすると、あの世の母が、こんなものまで載せないでよと
恥ずかしがっているかも知れません。



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書かれてある話は、おそらく今から約25年近く前のことのようです。
兄は大学を卒業して教職に就いていました。
長男と鶏の話
長男が小さい頃、春まつりの露天で鶏のひなを買って来た。家族の足元にまとわりついてピヨピヨと鳴いているうちはよかったが、次第に大きくなりとさかも立派になると、夜の明けぬうちから、コケコッコーと時を告げるようになった。
夏の夜は短いのに、家族一同この声に早起きを強いられて睡眠不足となり困ったが、尚しばらくは飼っていた。しかし、おんどりは気が強くなるばかりで、エサをやる手にかみついたりするので、親戚に処分してもらうことになり、私が送り届けたのであった。
長男が大学を卒業し、高崎市の郊外に就職した。住居は市内の静かな住宅地だから、来てみるといいよという。高崎駅がまだ昔の姿の時である。ふと見ると、なるほど近くにお寺の大きな屋根があり、北の窓からは観音様もおがめる、結構な住まいであった。
雪国から出て行った私は、もう桜が散り果てているような関東の陽気にのぼせてしまい、その日は早々と床についた。初任給で高い家賃を払って暮らしていけるのだろうかなどと思っているうち、いつか眠ってしまったが、翌朝なんとまだ暗いうちに、コケコッコーの声に起こされたのである。カーテンを手でよけて三階の窓から下をのぞくと、山路をへだてた向い家の庭にそれらしい小屋がぼんやり見える。うす明かりの中で、なつかしい声ではあるがこれは大変だなと思った。
長男は、おんどりの鳴き声よりも月4万円の家賃に音を上げて、二年後に郊外へ引っ越した。一戸建てで、広々とした青空駐車場付きで、近くに田んぼもある田舎だよ、家賃が1万円安いから車を持ったけど大丈夫だよ、という。行ってみると、又々お隣さんはおんどりを飼っているのである。そのトリは一日中気の向いたときに鳴いている。鶏に縁があるねと云ったら、長男は、俺酉(トリ)年の生まれだからね、という。なるほど、それを忘れていたよ、そうだったねえと妙に納得したものであった。
それから二年後の昨年、本人も希望していた新潟県へ就職することができた。それはよかったのだが、新任地は、小出も長岡も新潟さえ飛び越して、羽越本線の坂町駅の近くだという。高崎からは約三百キロ北である。住まいは一戸建てで、三部屋あるから楽々泊まれるし、庭もあるよ、という。又ニワトリに起こされるのかねえと云うと、いや今度はブタだよとの返事。・・・・・。隣は豚舎だそうである。
近くに生きものがいると何となくのどかでほっとする、というのが長男の弁である。長男は、豚舎と背中合わせに、あと何年あの閑居に住むのであろうか。 (終)
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Mon.
01/19/2009
震災の街に
Fri.
01/16/2009
亡兄が手漉きの
Fri.
01/16/2009
亡き父思ほゆ
Mon.
01/12/2009
ただ一羽
Mon.
01/12/2009
背の子も
Fri.
01/09/2009
雪晴れの
Fri.
01/09/2009










